なぎさホテルの哀愁 

2011年9月30日金曜日
なぎさホテルという哀愁

先日、高田馬場の大きな本屋の中を散策していたら、伊集院静の「なぎさホテル」という新しい著作がたくさん平台に積まれていたし、スタンド型POPの手書きのメモが揺れていたので目立った。だけれども手に取ることもなくやり過ごす。なぎさホテルはかなり大昔、妻晃子(てるこ)に誘われて一泊したことがあった。結婚して2,3年後だろうか。まだ子供がいなかったので、お互いが25,26才の頃と思われる。すると1975年とか1976年とか、そんな頃であった。僕は田舎者で、当時逗子のなぎさホテルの名前も価値もあこがれも無かったけれど妻に言われて、ついていっただけだ。たしか、夕方にホテルに着いた記憶で、この写真にあるファサードが赤みを帯びているイメージである。写真に入っていないもっと右側に材木のような物が積んであり、そこに黒白の猫がいた。いや白茶色だたっかなあ、猫がいて妻が「あっ、猫」とつぶやいて、駆け寄りなでてあげていた。

お腹がすいていた僕は、好い加減に中にはいろうぜ、みたいなことを言いフロントの思いでは一切無いけれど、中へ入った。その時代、僕は東映で助監督を中断し、リクルートで全く新しい分野で仕事をしていた。妻は駿台予備校の理事長秘書であった頃だろう。その理事長は有名な人でというより、良くないことで名を馳せていた人で「非常識よね、今晩のお肉やコロッケまで、学校の経費につけているのよ」と言っていたし、有名予備校のトップなのに長男が日本の大学の何処にも入学できず「グアム島大学にやっと入れた」と彼女から聞いていた。だから、冷めた目で彼女は仕事していたのだろうし、そのぶん僕と結構あちこち出かける心の余裕もあった。僕が知らないところでは「九段のフェアモントホテルに行こう」と、クリスマスあたりに美味しいものを食べにいったりした。

そんな時代のなぎさホテル。入って驚いたのはお部屋の中にドアがあり、隣の人のいる部屋に通じていた。おそらく今考えると晩夏の良い時期でお客様も多くスイートルームを2家族に分けて使用していたのかも知れない。もちろんドアの前には開かないように大きな調度棚が塞ぐように置いてあった。まあ、お部屋自体は二流の印象で思い出に残こるほどの良さは無かった。でも、翌朝の快晴のもとでの朝食は僕にとってそれ以上の快適さというか心地よさはないような、世界で一番幸せなブレックファストであった。こんな幸せ、こんな安寧でいいのかとさえ、25,26才の僕は感じた。そう言う気がする。ホテルの前庭にはレストランのテーブル席があり、その先はまさに渚だ。朝の陽光がきらきらと小さな波に乱反射していて目映い。

僕たちの座ったガーデンのテーブルの周りには同じ白地に赤格子のギンガムチェックのテーブルクロスで整えられた20卓くらいがあったろうか、でも人影はなく、確かぼくらだけであったような気がする。僕たちがいたお庭のテーブル群と渚の間には道幅5〜6メートルの公道があり、車もめったに通らない時間であったのだろうか、通行は1,2台だけであったような。渚の砂地と水際を散策する人もまばらで、僕らが頬寄せ合いキスをしてもだあれにも気がつかれないようなロマンチックな風景が涼しげな朝の空気のなかに広がっていた。その時間は朝焼けが薄れ、人々が起き出す少し前の時間帯かしら。僕らのテーブルには何があり何を食したのか鮮明ではないけれど、想像もちょっと加えるとスクランブルエッグとトーストと、コーヒーが2セット置いてあって、ナイフとフォークがハの字に礼儀正しく皿の上に乗っていた。僕らは何を語り合ったのだろうか。これからのこと。共に好きであった映画とか誰かが書いた本のこととか。二人で手を握り合い、見つめ合って居た時間の方が多かったかもしれない。僕たちには朝の快適な空気にまさる僕らの未来があるように信じられた。二人の若い肉体と僕らの鮮やかな思考がそれを保証していたように思えた。

先日、山田さんという乃木坂で長らく不動産業を商っている長いお付き合いの方とお会いしているとき、たまたま、湘南や逗子の話となり、僕が1980年代に僕の企画でお世話になったイラストレーターの鈴木英人さんの事になった。僕はそのころ、一人で鈴木英人さんや、空山基(はじめ)さん、河村要助さんの当時最高レベルの作品群にオールディーズや、コクトー・ツインズ、カリブ系音楽を付けたような高級「環境ビデオ」作品を何種類も製作販売していた。鈴木さんはいきなり相談にいった僕を邪険にもせず、企画意図を聞いてくださり、すぐに200枚ぐらいの作品をお貸しいただき製作し、パイオニアレーザーディスクとして作品化した。思いつきと感覚のみで勝負していた時期であった。

山田さんとひとしきり、逗子と鈴木さんと、このなぎさホテルの話をしながら、お互いに頬をゆるめ年齢を重ねた過去をそれぞれに振り返った。僕と山田さんは25年前にいっしょにスペインとかギリシャに行った仲だ。山田さんは葉山の日陰茶屋の十代目庄右衛門さんというオーナーと昵懇であったらしく、早世された彼をしきりに悼んでいた。そこから分かれた「喜八」とか、僕なんかはバブルの時代にそれぞれ一回行ったきりであるが、そんな話しも出て、彼が今度何度目かのハノイに来るというので、次回はハノイで、ということで六本木ミッドタウンの美味しいお店を辞した。

伊集院静の「なぎさホテル」を読もうと思わない。夏目雅子さんと伊集院さんの思い出もあるのだろうが、僕には僕の晃子との世界があるからね。猫。ファサードから玄関の夕焼けの赤み。古い木質の客間。さわやかな早朝の僕ら二人の朝食とコーヒー。そして、たまに通った古い車の丸っこいエンジン音。穏やかな波のささやき音。子供の声が遠くから、聞こえてきたような。太陽がじりっと上昇し始めて、僕らは部屋に戻った。
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