2012年11月12日月曜日

「日本語学んでサムライになろう」書店で販売開始!

やっと店頭にも出ました。こういうのはやはり嬉しいものです。「ハノイの書店で買いましたよ」なんていう情報もベトナムの青年からFACEbookによせられた。ありがたいですねぇ。日本語の目次やページが40数ページありますので、日本人の知人友人お客様にも大量に購入いただきたいものです。定価は3ドル(240円)ですので、お求めやすいですね。ハノイ貿易大学では、一部ですが大学の教材になるらしい。最高ですね。名古屋の「名南」さんからも200冊の予約をいただきました。

授業で、使ってみた。この本を多くのベトナム青年に読んでもらうためにはどうしたらいいか、プロモーションとマーケの戦略検討は宿題にもしてみた。リアルな経験をさせてみたいのだ。次回の提出が楽しみ。


以下は、目次です。

『日本語学んでサムライになろう』2013年版
〜〜今チャンスの日本留学と就職のための教科書〜〜
        



           はじめに
         〜この本の読み方〜

■第一章「日本語は、君の生き方を大きく変える」

1 新幹線もオートバイも環境技術も日本の得意な技術です。ソニ
 ーもトヨタもホンダもキャノンもパナソニックユニクロもみん
 な日本の企業です。

2 日本には世界一の技術やコンテンツと、深い企業文化があふれ
 ている。
        

3 世界一長寿の企業も日本にある。何故だろうか?
3 ○日本語版あり

4 日本は、ベトナム人の「日本語サムライ」を待っている。君は
 何をしたいのか。さあ、君の「適職」を探そう。


5 さあ、リアルに君の今後をシミュレーションしてみよう。ここ
 では、ある二人のサンプルを創作してみた。就職活動の参考にし
 てくれ。
6 日本語ができるベトナム人が少なすぎる。少ない今だから、君
 に大きなチャンス有り。

7 知ってるか?日本は若者が減っている。だから若いパワーが欲
  しい。
7 ○日本語版あり

8 日本には、既に中国人や韓国人などの若者が100万人以上も
 来て、頑張って仕事をしているよ!ベトナム人は4万人未満だ。

9 何故か、日本人はベトナムが大好きなのだ。

10 日本政府の「30万人留学生計画」とは何だ?簡単に説明し
  よう。
10 ○日本語版あり

11 日本留学は子供への、“輝かしい未来“というプレゼントです。
  言い換えると、愛の投資ということだ。



■ 第二章「そもそも、日本はどういう国なのか?美しくてまじめで  
       不思議なサムライの国なのだ」
 
1 第二次世界大戦後の復興と技術の蓄積の歴史をみてみよう。
   〜国民こぞってのバイタリティー
1 ○日本語版あり

2 現代のニッポンを変えた4つの要素

3 伝統的環境を守る日本人の心と3月11日の大震災        
 
4 勤勉さ、倫理感、生き方についての日本人の心・・参考になる
 はずだぜ。
4 ○日本語版あり

5 学力と教育システム。日本は「フツーの人」がすごいのだ。 
5 ○日本語版あり

6 日本の大学生の就職活動って、凄まじいぜ。
    〜リクルート社の勃興〜
 
7 情報社会の中のメディア。特にテレビと新聞を検証してみた。

8 サブカル大国。世界一のマンガ、アニメ、ゲーム。
8 ○日本語版あり

9 不思議なメンタリティー・・「公平と正義」日本はかなり社会主 
  義的?!
9 ○日本語版あり

10 企業市民とか、企業の社会貢献とか。サムライは深く認識し
  てほしい。
10 ○日本語版あり
 
11  東京オリンピック大阪万博。そして団塊の世代と高度成
  長は、戦後日本の象徴である。

12 海外PRがへたな日本。ODAが有効に活かされていない。
  日本の努力をぜひ、君たちに知って欲しいのだ。
12 ○日本語版あり


■ 第三章「日本語をどう学ぶか。上手な方法はこれだ!」
1「演劇的・大声・暗記」
2「書き写し」と「google、yahoo、ウィキペディア
 2−1 「書き写し」
 2−2 「GoogleYAHOO! WIKIPEDIAの日本版の活用」
3 VCIの日本語上達法のエッセンス
4 計画と持続性
 4−1 計画を立てる以前の一番大切なこと
 4−2 「計画はきらいですか」
 4−3 「目標」をたてることから始める
 4−4 「持続性」
5 恋人から学ぶ

■ 第四章 就職したい日本の企業に君が選ばれるためのノウハウと「日本企業の世界一の特徴」を君に教える
1 採用されるポイントは、はっきりしている。
2 面接時の主な質問
3 必読!「日本企業の品質についての考え方」
3 ○日本語版あり


4 徹底した社員教育がある。日本企業の特徴の一つだ。
4 ○日本語版あり

5「公平、協調、チーム」。ベトナムの文化と違うので深く認識して
 欲しい!!
6 さあ、自分の未来を描けるか?イメージできるか? 


■第五章「あなたのソリューション」人生のドアは自分で開け!
1息子や娘の日本留学を考えて居るお父さんお母さん 
2自身が日本の大学や技能専門学校に留学したい人
ベトナム国内にある日本企業に就職したい人
4日本の本土の日本企業に就職したい人
5日本企業と取引を増やしていきたいVN企業幹部
6日本人と結婚したい人

■第六章「日本語で成功したサムライたち」
  1:vietさん インタビュー
  2:HUONGさん インタビュー
  3:ずんさん インタビュー
  4:ナムさん インタビュー
  5: 留学生5人の座談会
  6: ビナマリン ツーさん インタビュー


■第七章 FAQ   
・ 日本での環境
福島県原発事故の今後について
・ 準備のポイント

(■第八章 )「謝辞」と 「著作者と翻訳者の経歴」
○ 日本語版あり

(■第九章) 「自分を高めるための相談・連絡先」

以上   

久しぶりの投稿です。ちょっと前の記事を本体ブログからもってきました。

いなせな若衆。岡山タツモさんの4人です。

この写真は岡山県井原市タツモ株式会社の山辺部長から送られてきた画像です。お手紙には会社の近所の井森神社の秋の祭りとある。嬉しいじゃあないですか、このいなせな法被姿。左から2番目のフン君と右端のホンくんは、当VCIの706クラス。つまり、2008年の春にタツモさんに採用されもう4年だねえ。佐藤、五百木(いおき)、作間の女流三人組の先生が愛弟子のように育てたクラスだし、そこのトップであった2名です。堂々たるものがあるね。フン君は当校の2年あとのクラスの婚約者ホアさんと結婚、いま一児の父だ。ホンは、まだ独身だっけ??教えてください。左端のチャン君と右から2番目のツアン君は、いま、どうなのかしら、この写真だと風格はでてきたようだが、実力はどうなんだい?君ら二人もVCIを卒業して採用されもう1年4ヶ月ぐらい経ったかな?

今年は、様子を見に行かせてください。ぜひ、皆様にお会いし、彼らにも激励で会いたいですね。5年前に夕方御社にお伺いしたことが、昨日の様です。昨日の夕景のように思い出されます。
タツモさんは、液晶装置、半導体装置のメーカーです。TAZMOベトナム(小合社長)がホーチミン市にあります。 http://www.tazmo.co.jp/index.html



投稿者 阿部正行 時刻: 20:36 0 コメント
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2012年4月20日金曜日

大川小学校にまた訪問して、皆さんとお会いした。


前回はいけなかったが、大川小学校のそばを滔々と流れている北上川の河口に行ってみた。まるで海みたいであった。写真奥上流4キロぐらい左に大川小学校がある。


小学校正面脇に鯉のぼりが設置してあった。

4月15日日曜日に石巻の大川小学校のご遺族のなかの「ひまわり」のお母様たちにお会いしてきた。今度も仙台の弟が車で一緒に来てくれた。今度の東日本の大震災・津波原発事故では、2万数千人の方が亡くなられ、あるいは不明となっているので、遺族というか、悲しみに暮れたご家族は数十万人もいたのだろうと思う。大川小学校のご遺族たちはその中の小さな単位に過ぎないけれど、生活だけでなく、マスコミの無責任ともおもえる取材攻勢から身を守ることさえ仲間同士で支え合い、この1年間を過ごしてきたようだ。


僕は、何が出来るのであろうか、と自問しながら、ひまわりのお母様と連絡を取り合ってきた。前回10月は、福田さんご夫妻とお会いしたわけだが、今回はわざわざ、ひまわりのお母様のほとんど全員に近い7名の方が来てくれた。自分の子供たちが黒い津波に流された橋のたもとの三角地帯と地元の方が言う場所で、お会いした。後ろの堅牢な交通標語の看板が根本から曲がり折れている。このいわゆる三角地帯では、これからチューリップが咲いて、その後ひまわりだそうだ。

僕の出来ることは、今のところお子さんたちの元気であった時の様子をお聞きすることだろうと思っている。短い時間ではあったろうけれど、地球上にお子さんたちが残した痕跡を僕がお母様たちから聞くことなのだろうと思っています。またさらに、ベトナム人の知人たち、学生たちが「大川小学校の種を頂いて、ベトナムに撒いて咲かせよう。そして子供たちの事を思い起こそう」という動きを僕が手伝うことだろう。上の写真で僕が持っている袋には改めて狩野さんからいただいた100〜150粒が入っています。
先々週に先行して、学生たちが撒いた種は芽が出始めた人もいるようです。近日、そういう写真の報告も送ってくることでしょう。

小学校の悲劇ですので、お子さんを兄弟姉妹同時に亡くしたお母様も多い。僕と連絡をいつも取って頂いている僕の隣に居られる福田さんは男の子と女の子の兄弟を同時に亡くしている。三姉妹とか、一家6名とか同時に家族の多くを失った方もいる。その悲しみの大きさと深さは幾ばくか。その事実の中で、立ち尽くすだけで、僕などは何も語れない。
でも「生きてこそ、子供たちに会えるんだよ。死んではならない」と誰かが、彼女らに心を強く持つようにおっしゃったようだ。
廃墟となった小学校右側面と「裏山」といえる雑木林や丘が見える。距離は200メートルも無い印象だ。今回はその辺も歩いてみた。

成田空港小史とグランドスタッフ

2012年1月16日月曜日

成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人
体が不自由になってしまった僕が無理矢理日本に。さあ、成田に到着だ。狭いイスから立ち上がると、やっぱり左足が猛烈に痛い。無理して立ち上がったが、はてさて、この広い成田空港をイミグレーションまで到達し、無事出て、バスか電車に乗れるのか。その瞬間、僕でも車イスを要請できるのかなあと考えた。先日のハノイ貿易大学の採用でいらしたお客様には、「大丈夫です、車イスは、時間かかりますので」と恐縮ながらお別れして、グランドスタッフの女性がその辺にいないか探した。

案の定、飛行機から出て、200mぐらいの所に二人の女性スタッフが「お早うございます」とか降りてきた乗客らに言っていた。ちょっとキリッとしたお顔で優しそうな女性の方に「悪いんだけれど、ベトナムでヘルニアが発症して、歩けない。車イスある?」と声を掛けたところ、彼女は「ハイ」と明るい声を出し何処かにいき、3分もしないうちにあこがれの車イスを持ってきた。ハノイフランス病院の古くて重たそうなイスと全く違い軽快な動きが出来そうな車イス。で、彼女は僕を座らせ、僕の足をとって、足のせを素手で出し体制を整え、「では、よろしいですか」と快活そして、なぜか色っぽい声で言ってくれた。最高だぜ、空港のグランドスタッフ。

成田空港は言うまでも無く、政治の都合で強引に設置したのもであった。当時18才の僕には飛行場の羽田につぐ設置が日本経済の構造の中で特に必要であったと思わなかったし、千葉で在る必要もないと思って居たので、学生と農民の連帯という観点で、何度も成田の闘争現場に行った。特に1968年の3月の数度にわたる「成田空港公団」「市民グランド」での闘いは5〜6000規模の学生部隊、青年労働者が結集して、全国民の関心の中で壮絶に闘われた。中核派は単純ゲバルト(暴力)グループらしく、2千人ぐらいが一気にどこかに隠してあったゲバ棒を取り出し、公団に突入しようと意思統一を図って決起していた。僕は当時早稲田の反帝学生評議会という青ヘルメットグループにいた。大先輩の大口昭彦さんが「市民と農民との連帯はゲバ棒による武装闘争では生まれるものではない。我々は何も持たず、固いスクラム組んで、デモ隊列だけで、機動隊や公団の鉄条網のバリケードを突破してゆくぞう!」とあの誠実で骨太の面構えでアジッた。

「ええっ、素手で突破するのかよ〜」と一瞬思ったが、あの大口さんの信頼できるアジテーションにはかなわない。我々青いヘルメット1000名は何も持たず、スクラムだけで機動隊に突撃していった。鉄条網はみんなでスパナで切って公団のバリケードの中に入り込んだが、僕の前で何人も転んで立ち上がれない学生がいるし、僕もそこに押されてのってしまい、身動きできず息も出来ないほど苦しい。全身に力を入れて後ろを見ると僕に5〜6人は乗っかって彼らももがいている。「オレ、ここで窒息死か」と覚悟したね。ホント。 *大口さんは現在弁護士として市民運動や庶民の立場で現在も活躍されています。

で、そんな闘いは続き農家の家に泊まらせて頂き美味しい食事を頂いた事もあった。1978年の「管制塔占拠闘争」時点はリクルート社で仕事をしていた時代になっていたが、100万人集会に参加するために岩波映画労組の陣内さんらと現地に。集会現場や道道では既にビジネスマンになっている友人たちにと同窓会のようにたくさん会った。フジサンケイグループの印刷会社に居る川上にも「おお、きてたか」とかいって、二人で笑い合ったことを覚えている。僕は30才近くであったし、娘も生まれていたころだ。そして、その3才の娘と妻と3人で成田空港を使って80年頃の夏、グアム島旅行に行った。作家の野坂昭如さんは、いま、寝たきり状態だが、当時「生涯成田空港は使わない。」って宣言していたっけ。闘った場が、完成してから、どう対処したらいいのか、当時どう考えたのだろうか。僕はその頃、何の矛盾もなく、何のためらいや思いもなく、成田を使用して観光ツアーに行けたのか。ほとんど思い出せない。ただ、離脱していたことは事実だ。

闘いって、どんなに激烈でも闘う当事者の立場と意志が関係している。僕等は観念的に学生と農民と労働者が一体となるチャンスのような幻想を抱いていた。自分の土地を守りつつ、反権力の立場を提示してきた反対派の農民の方々は偉大だし、歴史に残るであろう「農に生きる」人民の戦列を構築した。百姓一揆として大切な魂を全国民に知らしめた。でも、一部の住み着いた学生や、そのことで出会って結婚して、闘いを生活にした学生はいるものの、僕等のように外部から時々援農したり、時々ゲリラ戦や集会に参加していた大半の、数十万の学生にとって、成田闘争は何であったろうか、と改めて思う。闘争を拡大するために支援・協力をすることは重要だ。重要であるが、「層」としての学生は4年もすれば、人が入れ替わる。拠点がない浮遊した存在であったことは、以前から言われていたことだ。

たくさんの学生運動の総括書、運動史の本を紐解いてきたが、結局五木寛之さんの「デラシネの旗」じゃあないけれど、根無し草の自分をどのように自立・自律させて、生きて行くのか。僕なんか、そんな時代から40年間、63才の今も問われるし、ある意味今も問い続けている。ベトナムで学校を経営したり、ベトナム人の学生を日本の優良中堅企業に正社員で送り出している仕事が、僕にとっての「三里塚成田闘争」を含めたベトナム反戦闘争・全共闘闘争の総括的な事なのであろうか。自律を追求し、これとは別な道はなかったのだろうか。これが終着点?なかなかむずかしいね。80才ぐらいまで生き延びることになれば、後20年何するかも含めて自立・自律した人生の構想と総括を考えねばならないだろうなあ。

当時の僕の心中の深いところにあるメンタリティーは、「反権力」以上でも以下でもなかった様な気がする。社会主義革命や階級闘争を自らの思想に高めていくという風ではなかったと思う。貧しい人たちを助けたい。弱い人々に協力したい。大人社会の汚さ、ばからしさに染まらない。権力と権威を振りかざす腐った連中をぶっ飛ばす。おそらく、僕だけでなく60年代から70年代の初期に学生運動に関係した数百万の学生の大半は、こんな心情であったはずだ。高倉健さんらの東映のヤクザ映画や小林旭らの日活の不良青年映画の持つ「反権力の正義」とは、僕等の心情とシンクロしていた。僕たちは「弱者への」義理と人情で運動をしていたと言っても誰も否定出来ない。もっと言えば、鞍馬天狗月光仮面ゴジラも僕たちのヒーローであったし、その環境の中で僕たちは、「正義」感の強い大学生になった。そしてその後、超速で突き詰めてしまい、運動として「自己否定」に行き着いたとき、僕等は自壊してゆく。ここで当時の僕等の命を賭けた闘争を落とし込めるつもりはまったくない。本格耕論は別に譲る。

成田空港のバリアフリーの良さについて語りはじめて、大分道草した。彼女はすいすいと僕の車いすを押す。すすむ路面は絨毯が多いので、弾力性もあり進行は快適そのものだ。過日、フランス病院にて、車イスの楽しかった様を書いたが、車イスの性能も格段と違うし、通路は良質の絨毯だから、「車イス」ファンには答えられない充実感。僕が今までたぶん何百回と上下していたこの空港の階段やエスカレーターの裏側にはキチンと必ずエレベーターがあって、今回初めて、何カ所もエレベーターに車イスごと乗せていただいた。彼女はそういった度毎に、宜しいですか?乗りますよう、とか気持ちの良い言葉で僕を励まし、そして車を押してくれていた。こんな贅沢許されるんだろうか。貧乏性の僕らしく、申し訳ないという気持ちがまずは先に出る。何度も上下して、イミグレーションに。これも驚いた。車イス専用の窓口が別にあった。日本人や外人が長蛇の列つくって、モタモタしている間に、僕は誰も並んで居ない専用窓口でスムーズに通過。荷物の取り出しコンベアーでは、運良く僕の車いすが到着したとたんに、僕の荷物が目の前に。彼女がすかさず、僕を制してカバンをゲット。ありゃ、ホントに良い日だぜ。で、最終の荷物検査通過して、リムジンバスのチケット購入。バスの乗降口まで連れて行ってくれるという。嬉しいねえ。嫁さんにしたい娘だと恋愛の折れ線グラフが右片急上昇。彼女の手でも握りたい心境さ。で、彼女にお礼を言いつつ、グランドスタッフという仕事について聞いた。彼女は学生でアルバイトだという。へーっ、こんなにプロフェッショナルに仕事をこなしてきたのに凄い。ぼくは、今朝、ベトナムからもどったこと、ハノイで学校をしていることを簡単に言った。

「私はインドから来ました」という。「君、インドでうまれたの?珍しいね」と聞き返してから、「えっ」とおもい、振り返って僕の後ろにいる彼女を見た。「インド人です。ラードルと言います」、と言ったので、本当に驚いた。まじまじと見ると美しいインド人に見える。色の白い美人が優しい笑顔で僕の背後に立っている。目鼻立ちは確かに深いし言われれば、インド系だと言うことは確かだ。でもさ〜、道々僕と話してきた日本語はなんなんだよ〜。不覚にも全く日本人だと思っていた、だって、言葉の発音もイントネーションも完璧に日本人でした。インドの北部の町の出身で珍しく仏教徒だという。地元の高校を出て、全く日本語が出来ない状態で来日、でもがんばって日本の短大をでて、今は空港関連の専門学校で、空港職員の仕事を学びつつ、実習でこの現場にでているんだという。すごいなあ。えらいなあ。16才で来て、7年目。23才だという美しい人。惚れたね〜。でもハグも出来ない不自由さ。恋人のことや結婚の事も聞いた。インドは宗教対立が今でもあるので、彼女は仏教徒だから、ヒンズーやイスラムの人とは絶対に結婚はあり得ない。お付き合いする前にお互いに調べるのだそうだ。後で困るからね。また、カースト制もまだ生きていて、仏教の中にさえその制度はあるので、カーストの違う友人と食事したりは出来ないという。下の階層の友人とランチなどでもするものなら、親が「その階級の人と思われるから、辞めなさい」と言うそうだ。信じられないけれど、世界史の途轍もない法則の現実を若い彼女から、しっかりとした日本語で教えられた。

で、時間が来たので、リムジンバスの乗り場に。ありがとう、ラードルさん。あなたのようながんばるアジアの女性に乾杯。がんばって。僕は別れるときに目頭が熱くなった。あなたのような女性が、これからの社会を作っていくんだね、平和なアジア、インドをね。がんばれ、ラードルさん。「どうもありがとう。本当に助かった。感謝します」「お体を大切にしてください」とお互いに言って別れて、乗車して窓から手を振った。彼女も心持ち強く僕に手を振っているように見える。バスが発車して動き出した後まで、ラードルさんは、さよならの手を振ってくれた(感極まる)。

空港のバリアフリーというか正確にはアクセシビリティー(accessibility)と言うんだそうだが、とっても配慮が行き届いているとうに感じた。だけど、やっぱり、人だね。事をなす人の思いやりが在ってこその施設だね。空港が開港して30年強。人を大事にした政策を空港公団が港内でして来たかどうか僕は知らない。でも「名もない」アジアの若い女性ががんばっていることで、施設は支えられている。小さいが確実な仕事が人に感動を伝えるということが、当たり前であるけれどとっても大事な、これ以上大事なことがないくらい大切なことだとあのインドから来た娘さんに改めて教えてもらった。リムジンバスに揺られながら、ベトナムの学校のこと、ベトナム反戦闘争のこと、そして親切や思いやりとか・・・・、色々と考えながら睡魔に身を任せた。


《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂ハノイの知事である。
・2010年2月 MACMAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正ベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

ハノイ日本アカデミー卒業式

2012年1月11日水曜日

今日は02クラスの卒業式だぁ!おめでとう。

■写真 急な椎間板ヘルニアで、顔をしかめている僕を囲んだ元気なサムライたち。

僕はオートバイや車の往来激しい四つ角の一角で「卒業証書〜!、ズン殿〜っ!、貴殿は、当ハノイ日本アカデミーにて優秀な成績を収め・・・」とヘルニアで腰痛かったが立ち上がって、大声で読み上げ衆目があつまる中でズンくんに卒業賞状をで授与した。「優秀な成績」のところであははと笑う周りに陣取った8名の02クラスの仲間たち(去年2月にスタートしたほぼ日本語ゼロ状態であった学生たちのクラス)。でも、緊張したのか真面目な表情で受け取ってくれたズン。最近、授業に来ず卒業式には「出ずらかった」ので、ランチ宴会になってからやっときたズンくん。まあいいさ、責任者の僕が渡したんだ、責任は僕に在るさ。ズンには至急に再上昇していく個人的学習体制を取ってもらわなくてはいけない。4,5月には良い会社にいけるよ。心配しなくともいいさ。
それにしても級友のティエンが、わざわざこの四つ角のBIAHOI(黄色いイスの)まで、卒業証書を持ってきていて、奴が現れる時に「阿部先生、よろしくお願いします。ズンのです」と有無を言わさず、僕に押しつけた。ちゃめっけと言うか友情というかいいね。で、僕はうへ、と思ったが、ズンが近づいてきたので「よっしゃー」と即決して、痛い腰を上げ「証書」両手でもって、彼の神妙な顔に向け、満員のお客さんや店員が見つめる中で騒音にまけないように声を張って読みはじめた。


宴会たけなわの中程で、日本語中位の良い方のカインが僕の隣に来てこういった。「先生、ありがとうございます。僕は学習について行けず、去年の5月頃はやめようかなあ、と思ったりしていました。でもそのころの阿部先生の企業論授業で、自分の人生のドアーは、自分で開けるんだ。自分で開けるしかない。とおっしゃって、とても感動したんです」という。嬉しい話だが、具体的には覚えていない。そして「その後、がんばりました。まだ就職決まっていませんが、暗い気持ちにならず、日本語維持してなんとか春には入ります」と堂々たる日本語で、僕に言った。僕は思わず「うるっ」ときた。教員の喜びってこういう事なんだなあ、と改めて感じた。同時に教員のひとことひとことは、気が抜けない。慎重に言わねばならない、と言うことも改めて確認して胸に納めた。彼は例年であれば、ほとんど就職採用okのラインを超えている、確実ね。カインくん、がんばろう。もう一踏ん張りだよ。君はキャラもマスクもいいし、まあ、じっくり良い企業をねらおうね。


本日10日は、前からの予定で02クラスの卒業式だ。大げさなことはして上げられないけれど、4階教室で、僕とブオン社長と石岡教務部長と、それぞれの挨拶あって、卒業証書の授与。ズンが来ていないと、司会者。通常の日本語学校なら、この8名クラスで下位の2名ぐらいは卒業させないのかも知れない。日本語の成績だけを見ればそうさ。でも、日本語学校で無く、ベトナム唯一の「就職支援校」としての経験では、日本本土の会社に採用される人物のポイントは、日本語だけでは無いことは明白だ。正社員として10年もがんばる人物の評定に於いて日本語は必要だが絶対条件ではない。最近の傾向ははっきりしている。数学、物理などの基礎学問がしっかりしているかどうか。

また、外国である日本で能力を発揮できるのか。組織の中の協調性は?リーダーシップは?・・つまり、日本人の大卒新卒を採用するポイントと大きくは違わないんだ。煎じつめれば人物中心の判断と言うことだ(もちろん企業によって、そのポイントは大分ちがう)。人物におもだった優劣はない。日本語低位でも、積極性やクラスを和ます主役を演じれる人物は、面接企業のタイミング良ければ、即採用の可能性高いね。日本語の上下でだけで成績を云々出来ないのが当校のむずかしさであり、面白い所なんです。当校は聴解と会話・ディスカッションに力点置いているので、日本語総合成績下位のズンであっても、良くしゃべれる。上手いんです。

ハノイ工科大の大学院出て日本語ダントツのタン君のギターで、「青年よ、がんばろう」風な応援歌をみんなで歌って、さあ、BIAHOI(大衆飲み屋)でランチだ、行こう。まだ11時だけれど、行こう。と言うことで、僕等も教室を出て、BIAHOIに向かった。見上げると空は、珍しく一部だが大きく青空を見せていた。

ハノイ貿易大学日本プロジェクト学生の面接・採用

2011年11月20日日曜日
日本企業のトップの皆様、人事採用のご担当の皆様
特にベトナムに進出をご計画の企業の皆様へ

ベトナム随一のビジネス・商業系大学「ハノイ貿易大学」の日本で就職し、その後日本・ベトナムの両国で活躍を決意している学生たちのご紹介です。
彼女たち(女子学生が多い)は、来年2012年6月に卒業し、すぐに日本に渡航出来る現在4年生です。
日本語は日本語能力試験2級であり、学部にてビジネス日本語習得済み。
英語はTOEIC550〜750スコア。
採用面接につきまして以下の日程が計画されています。

■11月後半〜12月前半に一斉にこのパンフの配布やPRの実施。
■12月20日月曜と22日木曜日、26日月曜に東京・高田馬場にて
    「来年1月実施の見学・交流会」ご参加と学生の履歴紹介などの「相談会」を実施いたします。
2012年
■1月12日にベトナムハノイ貿易大学にて「授業見学・学生交流・大学幹部懇談」会の実施。
■2月末にハノイ貿易大学にて「採用面接」実施予定。
■6月中旬に大学の卒業式。すぐ日本渡航・企業就労の予定。
宜しくご検討ください。
なお、当パンフの送付のご要請含むお問い合わせ  
 abevci@vietnam-waseda.org  阿部


パンフレットの表紙↑

見開きページ左↑

見開きページ右↑

ウラページ(4ページ目)↑ いままでの「ハノイ工科大採用実績の説明」

以上、宜しくご高覧くださいませ。
abevci@vietnam-waseda.org 阿部
http://vciat.blogspot.com/

大川小学校に行った。

石巻の大川小学校に行った。

2011年10月26日水曜日
石巻の大川小学校に行った。

ひまわりのグループの福田さんご夫妻と、夏にひまわりがたくさん咲いていた大川小近くの「三角地帯」で。


大川小のファサード。モダンな印象。


遠くに校舎、右手に山、手前は校庭に集めたれた土砂。左手はすぐ北上川の滔々とした流れがある。



3月11日の大地震による津波によって、全校生108名の小さな大川小学校は波に飲まれてしまい行方不明の児童も含む74名の児童の尊い命を失ってしまった。何と言うことだろう。本当に痛ましい。言葉を失います。合掌。

地震後、津波の襲来まで30分以上の時間があった。何ということだろう。この大川小学校の近隣の学校でも、校庭に全校生が集められ、学校の幹部は30分間ただただ教育委員会の指示を待っていた。でもこの学校が結果的に全員助かったのは、小中学校の子供たちが誰も山の手の方に避難しない状況に不審を抱いた市役所の一人が、車で校庭に突入して、「何してるんだ、津波が来る。逃げろ、すぐ逃げろ」と絶叫し誘導したお陰であった。彼は学校のルールの禁を犯し、緊急の避難を呼びかけたのである。彼はそのもう一つ先の学校の状況にも不安で、非常事態を伝えに行く途中、車ごと津波に襲われ亡くなった。

22日土曜に僕は大川小学校に行った。今回弟が同行し車でこの大川小学校まで乗せてくれた訳だが彼の娘は、間一髪で助かったその学校にたまたまその日、栄養士の仕事で行っていたのだ。だから、事態の推移に弟は詳しい。大川小学校の当時の状況はよくわからないが、《写真》にあるように学校の脇は小高いコンモリとした里山であり、身の軽い小学生なら、5分もあれば十数メートルいじょうある山に確実に逃れたように思うのは、たぶん僕だけではないだろう。本当に悔しい。天災だけでない要因が大きく存在している事が誰の目にも明らかだからだ。しかし、津波はその人災の関係者やその家族までも深く飲み込み海に沈めた。だから、残された人々は外部の人間には全く想像出来ない複雑な悲劇を強いられる事となった。

震災後、僕はテレビで学校のそばにひまわりを植えた遺族の一部のお母さんたちのことを知った。これは、日本の説話として歴史に残るお話だと感動した。以下、僕の著作の謝辞のページにかいた。

「■ ご存じのように石巻市大川小学校は全校生徒108名という小さな小学校であったが、海岸に近くにあったため津波で74名(不明者含む)が犠牲になってしまった。日本人が忘れられない悲劇のひとつだろう。我が子を失ってしまったお父さんお母さんの悲しみはどれくらい深いものであったろうか。悲しみの中で、あるお母さんが、明るい娘を思い出したい、ひまわりのような娘にまた会いたいと考えて、学校のそばの空き地にひまわりを植えました。その心に賛同してやはり子供を亡くしたお母さんたちもいっしょにひまわりをたくさん植えました。途中で台風が来たり、海水がかぶってしまった土地ですからひまわりの育成に困難もありましたが、お母さんたちの努力で8月にたくさんのひまわりが見事に咲きました。お母さんたちはみんなで手を取り合って喜びました。そして、たくさんの種子を収穫しました。来年にはもっとたくさん咲いて欲しいからです。僕はこのお話をテレビで知り、感動しました。そして、日本人らしい心をとっても表していると思いました。このお話は、何時か「童話」となり「昔話」となり、幾代にもわたって日本中に伝わってほしいと心から強く祈念しています。」

お母様たちの「ひまわりを咲かせる」という愛情の表現はひまわりを謳った短歌であり、ひまわりを描いた魂の絵画と同一なのだと僕は思わずにはいられなかった。だから、当時当校の総合管理部の部長であったNGOCさんが中心にして集めた義捐金をこのひまわりを咲かせたお母さんたちに届けようということにさせてもらい、今回大分遅れてしまったが、やっと、大川小学校の遺族会の一員であり、ひまわりを咲かせたグループの方々に手渡すことが出来た。当日ひまわりのグループから福田さんご夫妻が代表で来られ、僕は「来年もたくさんのひまわりを咲かせてください」という当校のベトナム人スタッフと学生の主旨をお話しさせて頂き、当校のベトナム人の一生懸命の義捐金の合計金額13万円をお渡しした。そして福田さんから、大切なひまわりの種をいただきました。福田さんの奥様はグループの中心のメンバーのお一人で、前日にお電話で僕たちのことをお話ししたら、「その様な遠いお国の皆様までが・・・」と絶句され、電話の向こうで涙されていたご様子で、僕も何処に向かう感傷なのか不明なのだが思い切り滂沱の涙が机上にこぼれ落ちた。

当日13時、にお会いする約束であったが、念のために12時頃には到着していて、学校の前まで行って、ご焼香した。学校の位置は北上川雄大な流れから、200メートルぐらいだろうか。はっきり言ってもの凄く近接していて驚いた。滔々と流れる川の水が当時と変わらないだろう不安と悲劇の色に満ちていた。小さな学校は意外にもモダンなデザインで建築されており、ファサードは、普通の昔の小学校のイメージからほど遠い煉瓦とコンクリートの打ちっ放しの構造で、建築に詳しい人なら、毛綱毅曠(もづなきこう)さんの建築風というだろう代物で、驚いたのは、北上川の水面よりも低位置にありそうな学校の位置にもかかわらず、2階建てでしかなく、屋上もない構造であったことだ。どういう事なんだろう、川の氾濫でも、海側(ここからは海は見えない)からの津波でも、避難の時間的余裕を計算しての建築なのだろうか。あるいは、川と反対側にある安全地帯と思われる小高い山があるからなのだろうか。防災が昔から言われている土地柄にしては、まったく不用意な建築であり、一目してすぐに違和感を感じた。

福田さんご夫妻とは、かのひまわりの植えた「三角地帯」で僕と弟はお会いできた。ご夫妻はお子さんをこの学校で二人失った。子供が二人も一度に亡くなられた親の心境は地獄そのものだとしか言えない。本当にお気の毒です。何をお話しして良いのかさえ解りません。でも、お二人は背筋をキチンとされた態度でゆっくりと当時のこと、最近の事、そしてベトナム人への感謝の念を語った。凜とした姿とは、こういう事なのだろうと思う。「ひまわり」のお母様方、元気に生きてゆきましょう。生きて、亡くなられたお子さんたちとお話ししてゆきましょう。来年も見事なひまわりを咲かせてください。そのころ、また来ます。必ず、寄らせてください、ひまわりの皆様!
ブログ本体・・ http://vciat.blogspot.com/ 阿部 
投稿者 阿部正行 時刻: 17:34

ベトナム航空機内誌に、記事・・

2011年10月3日月曜日
*本体のブログには写真あり。
ベトナム航空機内誌「ヘリテージ」に2頁の記事(日本語訳付き)
まさか、こんなに大きい記事になってるとは!!機内誌であっても「ヘリテージ」誌は、ベトナム国内のマガジン業界ではまさしくナンバーワン高級誌で、機内だけでなく政府関係者、ベトナムの企業トップなどにも適宜配布されているので、PRを考えれば、相当の影響力があるといわれている。この間ベトナムの全国紙、経済/ビジネス雑誌、ラジオのインタビューや原稿を書いているので、このヘリテージ誌に何をいったか、細目は定かではないが、大見出しは「日出ずる国からの大震災後の仕事と人材の要請」という見出しらしく(ご覧の通りベトナム語だからね)、ちょっと大仰なので、驚きもあるけれど、取材者の日本に対する熱い気持ちと大きな期待感が見えてうれしい。それに2頁を使って書いてくれたことが特にうれしい。本当にがんばれニッポンだよ。元気で行こう。心中にこんな言葉を秘めてこの記事をながめた。この「ヘリテージ(遺産)」誌10月号は、10月末までの一ヶ月間、機内の背もたれのポケットに入っているはずです。ご高覧ください。 

《要約日本語》
日出ずる国ニッポンへ向かうこころ

ベトナムの多くの若いエンジニアは、VCIがベトナムと連携しているプロジェクトの一員となり、日本国の大震災後の復興に協力をして行く決意です。

2011年3月の日本での大震災の後、数百万のベトナム人の家族は寄付をしました。在ハノイ日本大使館の門の前に友達であるベトナム人に感謝の気持ちを表した大きくて盛大な看板が立ててありました。
日本国を復興させるために、高いレベルの人材が必要です。とりわけ電気、電子、IT、化学、機械等の理工系のエンジニアが必須です。
一方、先進的技術がある日本で高度な仕事をすることを希望しているベトナム人の若い技術者が多くいます。プログラムから卒業する学習者への給料は社会福祉、手当て、保険を含む一ヶ月2000〜3000$(1$80円)ということです。これはベトナム人の期待に応える給料です。
以上のニーズを理解して、VCIは日本語ができ優秀なベトナム人エンジニアが先端技術の企業で就職出来るための育成プログラムを作りました。
「あらゆるものには困難性があるのは当たり前です。従っていつも明るい心でもっと頑張るという決意を抱いていなければなりません」と阿部社長がおっしゃっていました。

東京のVCIの社長である阿部さんは元々ベトナムに特別の関心を持っています。「私のVCI学校の授業は優秀なベトナム人の学生が日本企業で就職できるような機会を与えるものです。卒業生は7〜8年にわたって経験を積んで、帰国してベトナムの発展に力を注げるようになるでしょう。このような人は新しい人材の苗になるでしょう。これがVCIのNPOとしての目的です。」と阿部さんがおっしゃっていました。

阿部さんは昔に「対アメリカ戦争」の学生リーダーでしたが、その後日越文化や技術に関わる仕事に全力で取り組んできました。
ベトナムからの支援への敬意と困難を乗り越える信念を持っている阿部さんはベトナム人の若いエンジニアと一生懸命に両国の友好な関係を築いてゆきたいと強調しました。
《要約》以上。
abevci@vietnam-waseda.org
http://vciat.blogspot.com/