なぎさホテルの哀愁 

2011年9月30日金曜日
なぎさホテルという哀愁

先日、高田馬場の大きな本屋の中を散策していたら、伊集院静の「なぎさホテル」という新しい著作がたくさん平台に積まれていたし、スタンド型POPの手書きのメモが揺れていたので目立った。だけれども手に取ることもなくやり過ごす。なぎさホテルはかなり大昔、妻晃子(てるこ)に誘われて一泊したことがあった。結婚して2,3年後だろうか。まだ子供がいなかったので、お互いが25,26才の頃と思われる。すると1975年とか1976年とか、そんな頃であった。僕は田舎者で、当時逗子のなぎさホテルの名前も価値もあこがれも無かったけれど妻に言われて、ついていっただけだ。たしか、夕方にホテルに着いた記憶で、この写真にあるファサードが赤みを帯びているイメージである。写真に入っていないもっと右側に材木のような物が積んであり、そこに黒白の猫がいた。いや白茶色だたっかなあ、猫がいて妻が「あっ、猫」とつぶやいて、駆け寄りなでてあげていた。

お腹がすいていた僕は、好い加減に中にはいろうぜ、みたいなことを言いフロントの思いでは一切無いけれど、中へ入った。その時代、僕は東映で助監督を中断し、リクルートで全く新しい分野で仕事をしていた。妻は駿台予備校の理事長秘書であった頃だろう。その理事長は有名な人でというより、良くないことで名を馳せていた人で「非常識よね、今晩のお肉やコロッケまで、学校の経費につけているのよ」と言っていたし、有名予備校のトップなのに長男が日本の大学の何処にも入学できず「グアム島大学にやっと入れた」と彼女から聞いていた。だから、冷めた目で彼女は仕事していたのだろうし、そのぶん僕と結構あちこち出かける心の余裕もあった。僕が知らないところでは「九段のフェアモントホテルに行こう」と、クリスマスあたりに美味しいものを食べにいったりした。

そんな時代のなぎさホテル。入って驚いたのはお部屋の中にドアがあり、隣の人のいる部屋に通じていた。おそらく今考えると晩夏の良い時期でお客様も多くスイートルームを2家族に分けて使用していたのかも知れない。もちろんドアの前には開かないように大きな調度棚が塞ぐように置いてあった。まあ、お部屋自体は二流の印象で思い出に残こるほどの良さは無かった。でも、翌朝の快晴のもとでの朝食は僕にとってそれ以上の快適さというか心地よさはないような、世界で一番幸せなブレックファストであった。こんな幸せ、こんな安寧でいいのかとさえ、25,26才の僕は感じた。そう言う気がする。ホテルの前庭にはレストランのテーブル席があり、その先はまさに渚だ。朝の陽光がきらきらと小さな波に乱反射していて目映い。

僕たちの座ったガーデンのテーブルの周りには同じ白地に赤格子のギンガムチェックのテーブルクロスで整えられた20卓くらいがあったろうか、でも人影はなく、確かぼくらだけであったような気がする。僕たちがいたお庭のテーブル群と渚の間には道幅5〜6メートルの公道があり、車もめったに通らない時間であったのだろうか、通行は1,2台だけであったような。渚の砂地と水際を散策する人もまばらで、僕らが頬寄せ合いキスをしてもだあれにも気がつかれないようなロマンチックな風景が涼しげな朝の空気のなかに広がっていた。その時間は朝焼けが薄れ、人々が起き出す少し前の時間帯かしら。僕らのテーブルには何があり何を食したのか鮮明ではないけれど、想像もちょっと加えるとスクランブルエッグとトーストと、コーヒーが2セット置いてあって、ナイフとフォークがハの字に礼儀正しく皿の上に乗っていた。僕らは何を語り合ったのだろうか。これからのこと。共に好きであった映画とか誰かが書いた本のこととか。二人で手を握り合い、見つめ合って居た時間の方が多かったかもしれない。僕たちには朝の快適な空気にまさる僕らの未来があるように信じられた。二人の若い肉体と僕らの鮮やかな思考がそれを保証していたように思えた。

先日、山田さんという乃木坂で長らく不動産業を商っている長いお付き合いの方とお会いしているとき、たまたま、湘南や逗子の話となり、僕が1980年代に僕の企画でお世話になったイラストレーターの鈴木英人さんの事になった。僕はそのころ、一人で鈴木英人さんや、空山基(はじめ)さん、河村要助さんの当時最高レベルの作品群にオールディーズや、コクトー・ツインズ、カリブ系音楽を付けたような高級「環境ビデオ」作品を何種類も製作販売していた。鈴木さんはいきなり相談にいった僕を邪険にもせず、企画意図を聞いてくださり、すぐに200枚ぐらいの作品をお貸しいただき製作し、パイオニアレーザーディスクとして作品化した。思いつきと感覚のみで勝負していた時期であった。

山田さんとひとしきり、逗子と鈴木さんと、このなぎさホテルの話をしながら、お互いに頬をゆるめ年齢を重ねた過去をそれぞれに振り返った。僕と山田さんは25年前にいっしょにスペインとかギリシャに行った仲だ。山田さんは葉山の日陰茶屋の十代目庄右衛門さんというオーナーと昵懇であったらしく、早世された彼をしきりに悼んでいた。そこから分かれた「喜八」とか、僕なんかはバブルの時代にそれぞれ一回行ったきりであるが、そんな話しも出て、彼が今度何度目かのハノイに来るというので、次回はハノイで、ということで六本木ミッドタウンの美味しいお店を辞した。

伊集院静の「なぎさホテル」を読もうと思わない。夏目雅子さんと伊集院さんの思い出もあるのだろうが、僕には僕の晃子との世界があるからね。猫。ファサードから玄関の夕焼けの赤み。古い木質の客間。さわやかな早朝の僕ら二人の朝食とコーヒー。そして、たまに通った古い車の丸っこいエンジン音。穏やかな波のささやき音。子供の声が遠くから、聞こえてきたような。太陽がじりっと上昇し始めて、僕らは部屋に戻った。
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AKBのじゃんけん大会の意味深

■ このAKBのじゃんけん大会を電子版だが朝日とか読売も報じていた。じゃんけんは子供でも大人でも遊びでも何かの順番を決める時でも使う。結構便利な文化で、どうも世界各国にあるらしい。今日も日本全国でじゃんけんは10万人ぐらいの人は、やるだろう。20万かな。それもどうでも良いし、じゃんけんの文化論とじゃんけん史を語るつもりもない、朝で忙しいし、もうちょっとで学生も集まってくる時間だし。
でさあ、秋元康さんは、頭のいい人だが、あの柔和な肉付きの頬に意地悪さも隠し持っている。「じゃんけんが報道されるか」これが彼の元々の彼一流の遊びなわけさ。全国で、じゃんけんしている小学生とか、サラリーマンの所にテレビ局のカメラマンが飛んできた、などというニュースは聞かない。

秋元さんは、「あのさあ、テレビ局バカだからさ、じゃんけんでも報道に来るぜ」と若手の放送作家らに言ったんだと思う。賭けもしたかも。で、その結果、もう2〜3年の定番番組になったようだ。いま彼は「ほらね、バカだろ、フフフ・・」と心で語り、必死に撮影にきた40才代とかの各局報道スタッフや新聞記者たちが、少女たちのじゃんけん大会の取材後、「良い仕事したね」と笑顔でビール飲んだかどうか知らないが、そう言う顛末のなかで、テレビ番組は粛々と澄まして製作されオンエアーされてゆく。で、売れっ子秋元さんは、「要は仕掛けさ」とにんまりしつつ、「でもさあ、おいおい、大丈夫か。じゃんけんなんか報道にきてさあ。もっと本来の仕事あるんじゃあないのか」と実は内心心配顔なのさ。

ベトナムの「いきなり譚」

ベトナムの良いも悪いも「いきなり譚」
Posted: 23 Sep 2011 06:16 AM PDT
今日は結構疲れたなあ。今まで出版する予定の会社と友好裡に事が進んできた。今日、契約書にサインして、編集の細部に入るはずであった。ところが、社長から紹介されためがねを掛けた理知的な印象の若い編集者が、いきなり「編集者と言うのは読者の味方です。内容の大幅な変更を私は考えています」といきなり宣った。えへっへへ、おいおい、いきなり何ですかあ。先ほど彼女を社長が紹介したさい、「彼女は大学院を出ています」といったことを思い出した。もちろん、すぐさま同行のルエンに「大学院とか関係ないよ」と日本語はルエンしかわからないので、思わず普通の会話で「くさした」ことも小脳あたりにフラッシュバックしてきた。編集者でマスターだろうが、23,24才の風情で、おいおい、大丈夫かと不安よぎったのが、まさに当たってしまった訳だ。マスター女史がいきなり、著作者に対立関係を挑んできたんだどうしよう。弁護士とか医者は庶民の味方でなくちゃあこまるよね。でも「編集者は読者の味方」とか、どこでそういう科白学んだのだよお〜。

僕なんか、マーケティングコミュニケーションの仕事を30年以上やってきて、本の作成や分厚いカタログ、PR雑誌などの仕事も何十回と体験してきた身からするとね、編集者とは「著作者を鼓舞し、マーケ戦略の方向に領導する高度な演出家」と思って居る。色んな見方もあろうが、そう間違っては居ないはずだ。体験でそう思うようになった訳だからね。それがさあ、「読者の味方で、大幅改造」だという。小娘が何を息巻いてるんだ。俺だって、ベトナムにかれこれ18年の半分は人生の塒(ねぐら)にした人間だよ。あなたの母国が好きだし、君の言い分は冷静に聞けるし、タイトルや見出しの変更、項目の前後の改編、社会主義政権にかなり批判的になってしまっている項目(自立的な市民層の生起に関する展開のあたり)など、話しによっては文面の部分修正・改善のテーブルにのるぜって考えてるんだよ。僕の顔をまっすぐ見てご覧、お嬢さん。
だがまてよ、大学でひょっとして社会主義的編集メソッドなる教程があって、「革命家は労働者の味方、編集者は読者の味方。」って、正式に教えているのかも知れない。それはそれで、面白いなあ。実態調べたいね。そうであればまあ今日は、貴重な体験ってことになるね、ふふふ。

問題のいきなりの紛糾は相手出版社のベトナム的な進め方が原因。出版社の女性社長は一瞬、話が破談になることを恐れて、新米のマスター女史をなんだかんだ諫めていたが、事が起きてからでは遅いと日本人の僕は感じる。日本的にいえば、準備不足の極みに見えるからね。だが、我がベトナムはそういった緻密な準備は通常しない。担当者の能力に委ねて会議が始まる。だから、日本のように根回しなど全く無いので、紛糾する事が多い。でも、その紛糾が多いが故に紛糾してからの整理と沈静化と笑顔の回復に長じている。日本的会議なら、準備していた課長あたりは減給ものだろうが、そこが文化の違いということなのさ。いきなりの変更、いきなりの発表、いきなりの訪問、いきなりの開始。いきなりの告白はないか・・。

もちろん、こういう会議のやりとりは通常通訳を通すしかない。僕がそれなりにベトナム語会話が出来たと仮にしても、通訳を使うべきレベルの会議だ。だから、当然当社のルエンさんの双肩に会議の正否は懸かるわけだ。ルエンさんは努力家で何時もがんばってくれるのだが、議論になると相手のベトナム人が言っている内容に溶け込みやすいというか、競り合いを嫌い、相手のペースの上で妥協が図られることが多いと、上司の僕は日常的体験からそう認識している。前の僕の担当のゴックさんは、上司である僕の立場に立って最後まで論陣を張ってくれていた。頼もしい相棒であった。来年戻って来ることに期待しているが、かわいいルエンに速いところ闘いの仕方をもっと指導しておかねばならないね。で、10月初旬に僕と出版の社長と書店ネットワークの社長と「ベトナムで売れるには、どうするか」に付いて会議することとなった。僕は12月1日の「クリスマス商戦」開始に間に合わせることにこだわっているのだが、さてさて・・・。
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大マスコミの言葉狩り、タブーの増長

2011年9月9日金曜日
言葉狩り」の傾向、タブーの増長
鉢呂とかいう頭が良いとはいえなそうな新大臣が福島の視察中に放射能の飛散で誰もいない町を見て「死の町」と言ったらしく、それがマスコミによって餌食にされ引き回され、「撤回させられ」、謝罪する羽目になったとか。その彼は、視察の終わりに記者に自分のジャンパーをこすりつけ「放射能を分けてやる」とはしゃいでいたとかいうからかなりとんちんかんな人物のようだ。民主党の人材の無さには呆れるね。こんな大事なときに経産大臣に社会党上がりの農協ボンヤリ親爺を宛がわなければならない現状。本当に民主党の人材難の方がゴーストタウンだぜ。死の町だ、誰あれも居ない。

だけれど、問題は「死の町」と「率直に」表してしまったことをマスコミがてめえの手足を食らうタコの様に言葉尻を捉えて非難し煽る。本質には興味なく政治家のミスの暴きのことにしか興味のなさそうな態度が何年と継続されてきたのはご承知の通りさ。僕はハノイにいる、だからテレビのニュースや紙の新聞は一切見ていない。見ていないが電子新聞の2,3紙を見ているだけで「問題になりそうだ」「批判が出そうだ」と大新聞が言葉狩りよろしくはしゃいでコメントし、煽りだしていることはハノイに居る僕でさえも見える。「問題にしたくてしょうがない」マスコミの難癖精神が丸出しになっていたことは、すぐに見えた。

あのね良いですか、「死の町と言えば現地の人たちの心が傷つく・・辞任に値する・・」とかいう東京からのおもんぱかりは、捨てろよ。現地の虐げられた怒りの感覚は、東京の君らと全く乖離しているんだぜ。わかんないの?危険地域で避難を余儀なくされた住民の皆さんは自分の町が「死の町」になってしまったと思ってるよ。むしろ、死の町にしたのは誰なんだ、東電よ、町を返せ!と怒りをたぎらせているんだぜ。マスコミの冴えない若造と東京にいてことの深刻さを理解していない中年のデスクよ。君らの暴くテーマは、何処にあるの?田舎のおっさん大臣の失言を追及する前に仕事があるだろう。ジャーナリズムという大事な仕事だよ。

大マスコミ各社の労使協定にある「危険なところには社員:組合員を行かせない」ルールに乗っかっていて、福島の原発近隣の住民の被害の実態、行方不明者の捜索の遅れだって、新聞社やテレビの東京キー局各社は、何処まで食い入ってるのか。NHKの30キロ遠方からとか言う超望遠映像のむなしさ。労使協定を踏んづけ、出来るだけ現場に近づこうとするNHK撮影部社員はいないのか。原発の現場同様に、マスコミも正社員は動かず、いわゆる「記者クラブ」に入れない下請けやフリーの個人的良心に下駄を預けている悲しい現状。

科学や技術にたいしての盲目的過信からくる怠慢。根拠のない無謬神話。自然を甘く見た政府と東京電力の傲慢さが、一番の問題であった。重ねてマスコミの甘さも看過できない。特に正力松太郎原発ビジネス開始の当事者であったことは、読売新聞も不幸で在るけれども御用学者の安全神話を「実態を知っていながらも」垂れ流してきた国民へのジャーナリストとしての裏切り行為をこの際、明確にしなければなるまい。もちろん、途中で原発容認に寝返った朝日も同罪だ。このマスコミのなれ合いで金権的環境が原発村といわれる巨大なタブーを増長させてきた。

いま、電子新聞見ていたらまた、また、言葉狩り風な読売の記事があった。「 石原氏の発言は、米同時テロから10年が経過し、当時の心境を振り返る中で出たものだが、日本人を含め、多数の死傷者を出したテロを「歴史の必然」と表現したことには批判が出そうだ。石原氏は講演後、記者団に「歴史の解釈の持論を述べただけで、テロ行為を肯定したものではない」と釈明した。
(2011年9月10日21時31分 読売新聞)

朝日新聞も「石原氏は講演終了後、「歴史の解釈に対する持論を述べただけ。決してテロ行為を認めたわけではない」とのコメントを出したが、テロを「歴史の必然」として容認したように受け止められかねない発言で、批判を呼ぶ可能性もある。」と。
・・ここにある「批判が出そうだ」「批判を呼ぶ可能性もある」が、言葉狩りの煽りの第一歩なのさ。倫理観を主観的に持ち出して非難し、世論を煽るいつもの奴。言ってる内容は何とも言えない歴史的複雑怪奇な事件だけれどもまあ、基本的には石原は間違っていないだろう。ただ、僕はブッシュが無意識に絡んだ謀略、つまり、アメリカがやった事件(もっと正確に言うとCIAが初心なイスラム原理主義的青年グループにやらせた事件)の可能性を捨てきれない。この若者らのお陰で、CIAは久しぶりで莫大増加の予算を得られ、また、産軍共同体はイラクアフガニスタン戦争という久しぶりの特需を堪能した。

言うまでも無く、ジャーナリズム精神に裏打ちされた立場で、権力者に対抗し、且つ批判するのが彼らの仕事だ。しかし、記者クラブの面々は失言や政治資金の相当細かい「あら探し」のみにしか力点が無いようにさえ、最近は思える。外国人からの少額の献金で毎回大臣が辞任する事態も多い。いまのニュースによると鉢呂氏は辞任したようだ、まあ、TPPのこともあるので、切ったのだろう。政治家は全く新規なそして鮮烈な発言や提言がこの環境では出来ない。経済人も学者もそうだ。実はブログの炎上と同等にマスコミによる言論弾圧がまかり通っているのさ。ちょっと何かあるとつぶす。一種の集団ヒステリー状態に今のマスコミは存在する。大マスコミの諸君、昨日の前原政調会長の「武器輸出の原則」の緩和の推進の表明だとか、「失言でなく信念に基づいた発言」にこそ、「反権力的ジャーナリズム精神」を発揮してに追求や「検証」すべきなのじゃあないの。前原に比べるとかつての森首相の「神の国」発言とか、麻生首相の「みぞゆう」発言が今になると、なつかしく、かわいらしい。
永田町と霞ヶ関と大マスコミ社による「失言や呆言との小賢しいバトルが日本の世界やアジアに於けるプレゼンスを如何に降下させてきたか。
仮に第三のタブーであった「原発村」に勢いがなくなり、自然再生エネルギーの時代がくれば、今度は今までと桁違いの防衛産業による「防衛村」さ。前原あたりを首相として、憲法を改正し巨大利権のタブー村は受け継がれる。大手マスコミ各社の編集委員論説委員を巻き込んで。
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「幻景の明治」とか

「幻景の明治」
大分前から、ちょこちょこ気分転換というか、読書気分に変化をあたえるためのに読んでいた前田愛「幻景の明治」(岩波現代文庫)とか、初夏からなんだか滞りぎみで「まいったな〜」の大佛次郎天皇の世紀 第五巻」(全十二巻)もだし、更に古本屋で見つけた村上光彦「大佛次郎 その精神の冒険」(朝日選書)と、先月くらいから、ときどき楽しませてもらってる玄侑宗久荘子と遊ぶ」(筑摩選書)、前回ちょっと触れた宮本常一「民俗誌 忘れられた日本人」(岩波文庫)をハノイの自室に持ってきて、ベッドに横たわって、寝るまで読んでいる。だから、仰向けになって両腕を天に突いてページめくってるのだから、本が顔に落ちて気がつくか、起きたら大抵本がシーツの上に落っこちていて、何処まで読んだかわかんない状態になっていること多し。なお、亀山翻訳版ドストエフスキーの「悪霊 全三巻」(光文社古典文庫)の三巻目がなかなか出来て来ない。マーケ戦略的に「焦らせ」で販売を遅らせているのかも知れないなぁ。全く読者無視だぜ。本当は買ってこっちに持ってきたかったのに。

今回はハノイ三週間以上なので、上記のように持ってきた本はいつもよりおおいが、大学での僕の講義用の「入社一年目の教科書」(ダイアモンド社)とかマーケティングの本とか、持参の本はいつもの何倍もだ。上記の大佛次郎の作品群の論評を書いた村上光彦さんって初めての人でよく知らないが大佛さんの大フアンが、嵩じて一冊書いたような言葉の配列をしていて、つまり、書く前に既に構想も展開も記述もほとんどまとまっていた様子が感じられたんだ。そして情熱的でいて、しかも清冽だし、作家に対する愛おしさが嬉しくなる。成蹊の教授だそうで、知られていないけれどかなりの良本だね。この本1972年の出版の古本だから、早稲田を中退して僕が東映の撮影所にいた頃に出版された本ということになる。当時ベトナム反戦闘争はまだ継続していたが、連合赤軍の痛ましい自壊があった年であって、僕が愛する晃子(てるこ)と3月5日結婚した年でもあった。僕22才、仕事はテレビ映画の助監督という時代さ。彼女も僕と同じで早稲田の第一法学部を出て23才、赤瀬川源平さんや中村宏さんらが教員で居た現代思潮社経営の「美学校」で彫塑を学びつつ、駿台予備校の理事長の秘書をしていた。晃子は美しく聡明であった。彼女のスマイルが今目蓋に鮮やかに生起した。声や息づかいまで蘇る。

昨日、ベトナムの最大全国紙「人民 ニャンザン」と「労働新聞 ラオドン」に取材された。
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ベトナム人の瞬発力 女性編

2011年9月5日月曜日
ベトナム人の瞬発力
今から、ベトナム人の行動力とか仕上げ力とか褒め称えるつもりで書き始めているのです。でも、そう言う褒められるような人物がベトナム人の大半ではないだろうし、傾向とも言い切れないけれど、でも、こういう満足経験は別なプロジェクトでも何度も経験しているのだから、遠慮無く「ベトナム人は凄い」と言い切っても良さそうだけれど、無責任に賞賛できない連中もまわりに居ることはいるので、断定はできそうにもなく、つまりは日本と大差なく「考えて成果を求めたり、モノを作り上げることに関心が強い」人は労働人口の半分は居ると見て良いんじゃあないかな。深く考える習性をたまたま得ていない人、視力は健全なのに目の前の視界に薄い膜が張られっぱなしの人って、日本の青年や壮年に結構いるよね。まあ40〜50%は優に居るんじゃあないの。もっと細かくセグメントすると差別に繋がるし、僕当人も「下層」にはめられそうになるとバカをみるから、だからここいらでこれは中断。

さて、僕の仕事で「凄いなあ」と僕を唸らせた人は主に女性2名なのですが、きちんと考え、さっさと実行する良質の50%組のその上位部分の人と言うことなんだろうとおもうが、実にゲリラなんだ。具体的にいうとベトナムのある有名雑誌の編集者であり、ちょっとまえまで、ケンブリッジという英語学校の経営者でもあり、身寄りのない身体不自由児を養子にしているアインさんと、かつては伊藤忠やホンダに勤務し、ファッションブランドを立ち上げ繁華街にブティックも持ち、人材供給会社の社長、アメリカとの合弁企業の役員などを経てきたブオンさんの二人だ。シンガポールの大学を出、その身寄りのない子供の手術では、イタリアとかアメリカまで行ってその子供のために献身しているANHさんは、どちらかといえば、国内外のメディアを通じたPRの展開に長じており、国内の人脈の動員や日本語もできるので日本語関係や税理士でもあるので、会計税務も担当してるのがブオンさんで、この二人がタッグを組んで我がハノイ日本アカデミーとNPOのVCI人材戦略研究所をベトナムに於ける確固とした位置の学校とリクルート機関にすべく動き出したのである。何とも頼もしい限りである。

で、僕は「ばかにするな、PRやマーケティングコミニュケーションは、僕の分野で在り、30年もやってきたプロなんだから」と拒絶し、金もないのに冗談辞めてくれ、とご両人に言い張った。経営の不振の実態は僕がよく知っているのであり、僕の営業努力の不足も原因の一つだが大きくは「リーマンショックからの流れのデフレであり、やや立ち直りかけていた際におこった今春の大震災が不透明な状況を引き起こしている」ことが、経営の不振の主な要因であろう、とお決まりの文句というか外部要因を並べ立てた。それは、一回の会議でなくメールのやりとりとskypeが多かったが何度も話した。でも、お茶代ぐらいしか金をかけないという。カメラマンも、大新聞も友人だし、雑誌も頼めるひとばっかり。で、阿部さんの「ネタ」は面白いので、言えば当然食いついてくる。だから、別に余計な費用は全くかからないと言う。ひゃ〜〜。何ともたのもしい。

で、面白いのは、老人阿部は、いま広報する金がない、PRの戦略は俺がプロだから、やるなら俺がやる、経営に明るい日差しが失せて丸二年経過したが、其の要因は不況が主だ、と今考えると恥ずかしい位の老人症風な論旨で彼女らの動きをつぶしにかかった。暖簾に腕押しってこのことなんだろう、僕の話を「ふむふむ」と聞きつつ捨て置き、「あらたな企画やPR材料の作成プラン」などが続々上がってきた。戦略内容はここでは明かせない。ベトナム関係者がこのブログをかなり読んでるのでね。

・・・一休みして音楽でも聴こうとYOUTUBEみたらエンニオ・モリコーネのいろいろがでていて、荒野の用心棒とか聞いているうちに、西部劇のエリアにはいりこんだら、「シェーン」聞いて涙がでそうになって、「遙かなる山の呼び声」いいねえ、そのうち「青い山脈」聞いて、ちゃんちゃんちゃん、チャンチャンチャン。戦後の雰囲気が何とも形容しがたい。原節子杉葉子池部良。ということで時間なくなった・・・・つづく 

で、今朝も大手雑誌社のカメラマンが来て、授業や僕のインタビュー写真などをバシャバシャシャッターを切っていた。前に言ったとおり、僕は取材する側であり、記者会見の段取りをする方であったので、戸惑いはないけれど、心持ちは微妙だ。

明日は、誰でもしっている全国紙3紙との共同記者会見がこのおばさま2名によって準備されており、一流ホテルに午前中に向かわなければならないことになっている。おいおい、背広持ってきてないぜ。日本で活躍している140名の当校卒業生の活躍の写真だとか、日本を楽しんでいる写真も数十枚このプロジェクトに渡しているので、有効に使ってくれるのであろう。
僕はここで、PRの最中だから、このブログでも広報しようと思って書いているのではないよ。彼女らの「発想」と「進行」について論評したいわけさ。なぜなら、ベトナム人社員を使っている企業のトップの方で、これを見ている人は多いらしいので、そういう方たちや、今後採用する予定の方たちの参考になればと思ってベトナム人の「生態」の一部をかいつまんでいるわけです。

ブオンは否定しているが、ベトナム人は概して計画を立案することが好きではない。頭の中でのプランは当然あるんだろうけれど、紙に出力して掲示するような計画には関心が無いように感じてきた。だから、僕の著作でも「計画きらいなベトナム人」と論断していた。でも、大きなプロモーションの計画だし、仕事もプロフェッショナルで鳴らしてきたお二人だから、日程は何時も唐突でいつものようにまごつかせられたが、PRのプランは媒体計画といい、サーキュレーションといい、演出的な全体の計画などは天晴れなモノでした。ただし、いっとくけれど、日本人の様に計画書作成自体が目的のような計画はまったく、考えていない。柔軟でいつでも変更可なしなやかなイメージだけを考えている。彼らは「日々動いているはずの事態と要因」が固定してしまう「計画書」に意味を感じない発想なのだ、煎じつめると「生きたライブな計画」は持っていると言うことだろう。紙に印刷しているかどうかは別ですがね。

つまり、ベトナム人も当たり前と言えば当たり前なのですが、ビジネスの最前線に身を置いてきた人は、全く日本人と同じに、様式はアメリカ式であったり、フランス式で合ったりするものの、ビジネスの戦闘に勝ち抜くセオリーと技術力は持って居ると言うことです。むしろ、始まったら徹底的です。遠慮なく、かつ大げさに言えば無慈悲でもやり抜く決意を胸に秘めて決起している。日本人はそのあたりの事情をよく知らず、自分より下に見ている気配(非能率的だなあ、とか)がまだまだある。でも、ちょっとそこがちがうんだなあ。

例えば、報連相は日本人が編み出したものだ。だからベトナム人だけでなく、アメリカ人もロシア人もインド人もタイ人も得意とはしていないと思う。報連相をインド人やロシア人が大好きだとは聞いたこともない。NYのビジネスマンだってそうだろう?報連相にある思想は根回しであり、情報の共有であり、決済の積み上げだ。僕らにとっては生活の一部にもなっているので、疑問も抱くことはないが、これは正規軍戦用の技術であって、ゲリラ戦用ではない。ゲリラは身内すら欺くほど唐突でなくてはならない。僕は生態を理解しているのはベトナム人しか居ないので、ここではベトナム人の事だけいうが、「順調に進めているのだから報告する必要は無いだろう」と彼らは思う。「連」の連絡は世界の誰もが必要な範囲で行っているので、当たり前のこと。「相」・・・年齢に関係なく競争に曝されている世界のビジネス界で、上司にあたる人物に「相談するか」どうか。ここが日本と大いに違う。半年以内に退社し、競合社にコンバートするかも知れない上司。1年以内に自分が彼の上司になるかもしれない社内競争関係。

日本はともかく穏やかで上品な文化が人間関係を覆っている。親や兄のような上司たち。人生、あくまでこの会社でやっていきたいと思わせる親爺社長。こういう環境では相談はとても有効だ。秩序が整然としていて、上意下達が明解だ。もちろん、現在の日本の企業社会で、このような「昭和な」世界は大分縮んでいるだろう。だいぶ、変化した面も多いだろう。でも、事業部制にしても年俸制にしても80年代からのバブリーな雰囲気の中で盛り上がった「改革」は大抵失敗に終わっている。前にもブログに書いたが、アメリカのエクセレントな良質企業は、日本の終身雇用の制度を改革したような「安心」「忠誠」を柱にした雇用体制に変えつつある。こういう企業では「報」も「相」も有効だし、実行される素地が大いにあるだろう。

ベトナムの二人のベテランビジネスウーマンを例にとって論旨をまとめたいと思ったが、どうも左右に揺れて、まとまりきれない。結語として、言っておきたいのは彼らには、身内の僕らもサプライズさせる行動とアイディアがあり、瞬発的に勝利できるパワーを秘めているということだ。「立ってる者は親でも使え」のような総動員で目的に向かう決意。そして、バブリーな雰囲気があるベトナムだけれど、まだまだ「お金だけでない、意義とか面白さ」を楽しむ面々が居るということだね。面白ければ友人誘ってパッと行動。昔の全共闘っぽい感じかな。そう言う人たちがベトナムの今日、明日の主導権をとったとき、ベトナムは国として、社会として更に大きなうねりがはじまのだろう。でも、彼女らは、自力でもう社会の中心の一歩手前まで来ている。期待のアラフォーである。そう言えば、彼女ら、子供はいるが独身だ。
abevci@vietnam-waseda.org 阿部
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紳助のうそ

2011年8月24日水曜日
紳助のうそ / 南方熊楠のねこ
島田紳助は昨今の彼の勢いが本来から持っていた多弁な才能を猛烈に掘り起こして、まさに「ドヤ顔」そのものになっていた。彼をよく知らないがヤンキーからのし上がったらしく、80年代の漫才ブームを構成した一人であった。90年代には田原総一朗さんのサンデープロジェクトのサブ司会もやっており、僕もなかなかの才人だと思って居た。ひょっとするといつかは、タレントの頂点に近く行くか、道を変えて政治の道に入るかも知れないとそのあたりでは、正直そう思っていた。最近の「ヘキサゴン」、「行列のできる法律相談」などでは、ともかく、プロデュースの才能を見せてくれた。

その才能ある紳助が、昨日の会見では嘘に満ちた会見をしていた。こんな事長く書くつもりないが、このブログの3月に「記者会見の日本語」を書きかけて、中断したママなので、その「加筆」のつもりで、書いているだけだ。会見も自分でプロデュース&ディレクションしてしまったので、(会見時に紳助の隣にいた吉本の社長があまりにも無能そうだから、仕方ないのかもしれないが・・)見え見えの嘘が滲んで見えた。たぶん、「一番厳しい処罰は引退だ」と言っているが、本当は吉本に解雇を通告されたのだと思う。

Aさんとは、ヤクザで有名な元プロボクサーの渡邊某であり、「十数年前に困ったことがあって、Aさんの知人のBさんにたすけられ、解決した」といっているが、恐喝かかなりの暴力事件を紳助が起こしており、その相手をヤクザBが「暴力的にかつ金銭的にそいつを黙らせた」と言うことだろう。紳助は、そのとき1000万円はらったか、もっと何倍もAとBに支払ったか解らないけれど、元チンピラ紳助と違ってヤクザは「しつこい」一度世話したら、一生付きまとい「せびる」。

昨夜、逃げるようにして芸能界を去ることにしたのは、今後の紳助の報道価値を下げるためにしたのだろう。おそらく、紳助はBとその組織に数億円の請求というか、恐喝されている立場に置かれている可能性が高い。吉本サイドはそれをつかんでいるんだと思う。さらに各テレビ局、CMクライアントから、近々数億円〜十数億円の損害賠償請求も上がってこよう。吉本と各社の契約がどうなっているかしらないが、タレント個人の引き起こした不祥事と言うことで、吉本が減免される方向でそれに対処しようという企業の論理が働いて、解雇を言い渡したとおもう。会見で吉本と紳助の契約について質問がなかったようなので、不明だが、「情に忍びないので、引退という紳助の言辞を否定しなかったが」後日、公然か隠然か解らないが、「解雇」が明確にされる可能性は大きい。

温情で「引退」という形にしてもらって、ホッとした表情と今後襲ってくるだろう様々な困難への不安の気持ちが、紳助の目の焦点を遠くに向かわせて居たように感じた。自分の傲慢さに足を掬われた島田紳助の騒動は、かなり引きずるだろう。
会見の段取りプロの僕からすると、嘘はすぐばれるので、絶対まずい。危機の会見は「仕方がなかった」戦略しかないんです。今回、4つも5つも嘘で塗りたくっているので、無惨だ。「引退が最高の罰則」などと横暴にほざいた瞬間、記者たちは「引く」のだ。尻軽な記者連はシンパから、叩く側に位置を変える。紳助さん、もう、会見でごまかせる方法はない。50億円ぐらいあるだろう全財産の90%位を福島県原発事故対策費用に寄付し、残りを家族に託し、本気に出家して坊主になってその上で、本を書いてベストセラーを狙う。残された道そのぐらいだろう。だって、しばらくすると、不動産ビジネスマン紳助は大阪の繁華街の一等地のビルの取得など難しい仕事をこのB氏なる山口組幹部の名前を「使った」可能性が指摘されるだろうからだ。

宮本常一の民俗・生活誌「忘れられた日本人」(岩波文庫)は、僕の子供のころ1950年代の日本の生活が思い起こされ、楽しくなる。ただし、東北の踏査がすくなく、関西がおおいので、ちょっと感じがちがうものもある。読み始めて思うのは僕が小学校1〜2年生の頃まで旧正月が存在していた事だ。仙台の市内でね。ややハイカラであった我が家は行っていなかったが、ご近所の庄屋さんの様な大きな農家では、同年二度目の正月を2月にやっていた。また文字を持たない伝承が意外に多いらしい。また、西日本は村全体の伝承がおおく、東日本はここの家のなかの伝承が多いとか。「講」とか「衆」などが多様に組み合わされて相互扶助がなされていた。さらに性が自由で解放されていたことなども、改めて驚かされる。ラストの網野義彦さんの解説が嬉しい。

日本の怪人というか、細菌学の権威であり、八カ国語も話せる翻訳者でもあって、何でもしってる博物誌学者でもある天才南方熊楠の波乱の生涯を水木しげるさんがマンガにしたのがこの「猫楠」(角川文庫)だ。我が輩は猫である風情に熊楠がかっていたであろう猫に人格を与え、猫を通して彼を描写しているから、何とも愉快に仕上がっている。猫語も出来る怪人ならではの設定だ。傑作のコミックスとして、是非、皆さんに薦めたいなあ。荒俣宏が解説で彼を「奇傑」と評していた。

《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。ぜひ、ご高覧ください。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂ハノイの知事である。
・2010年2月 MACMAC / 立松和平さんの死
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正ベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」
          の時代認識へ
・2011年3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリスト
・2011年5月 「人口8000万人時代」を構想する
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行