大川小学校に行った。

石巻の大川小学校に行った。

2011年10月26日水曜日
石巻の大川小学校に行った。

ひまわりのグループの福田さんご夫妻と、夏にひまわりがたくさん咲いていた大川小近くの「三角地帯」で。


大川小のファサード。モダンな印象。


遠くに校舎、右手に山、手前は校庭に集めたれた土砂。左手はすぐ北上川の滔々とした流れがある。



3月11日の大地震による津波によって、全校生108名の小さな大川小学校は波に飲まれてしまい行方不明の児童も含む74名の児童の尊い命を失ってしまった。何と言うことだろう。本当に痛ましい。言葉を失います。合掌。

地震後、津波の襲来まで30分以上の時間があった。何ということだろう。この大川小学校の近隣の学校でも、校庭に全校生が集められ、学校の幹部は30分間ただただ教育委員会の指示を待っていた。でもこの学校が結果的に全員助かったのは、小中学校の子供たちが誰も山の手の方に避難しない状況に不審を抱いた市役所の一人が、車で校庭に突入して、「何してるんだ、津波が来る。逃げろ、すぐ逃げろ」と絶叫し誘導したお陰であった。彼は学校のルールの禁を犯し、緊急の避難を呼びかけたのである。彼はそのもう一つ先の学校の状況にも不安で、非常事態を伝えに行く途中、車ごと津波に襲われ亡くなった。

22日土曜に僕は大川小学校に行った。今回弟が同行し車でこの大川小学校まで乗せてくれた訳だが彼の娘は、間一髪で助かったその学校にたまたまその日、栄養士の仕事で行っていたのだ。だから、事態の推移に弟は詳しい。大川小学校の当時の状況はよくわからないが、《写真》にあるように学校の脇は小高いコンモリとした里山であり、身の軽い小学生なら、5分もあれば十数メートルいじょうある山に確実に逃れたように思うのは、たぶん僕だけではないだろう。本当に悔しい。天災だけでない要因が大きく存在している事が誰の目にも明らかだからだ。しかし、津波はその人災の関係者やその家族までも深く飲み込み海に沈めた。だから、残された人々は外部の人間には全く想像出来ない複雑な悲劇を強いられる事となった。

震災後、僕はテレビで学校のそばにひまわりを植えた遺族の一部のお母さんたちのことを知った。これは、日本の説話として歴史に残るお話だと感動した。以下、僕の著作の謝辞のページにかいた。

「■ ご存じのように石巻市大川小学校は全校生徒108名という小さな小学校であったが、海岸に近くにあったため津波で74名(不明者含む)が犠牲になってしまった。日本人が忘れられない悲劇のひとつだろう。我が子を失ってしまったお父さんお母さんの悲しみはどれくらい深いものであったろうか。悲しみの中で、あるお母さんが、明るい娘を思い出したい、ひまわりのような娘にまた会いたいと考えて、学校のそばの空き地にひまわりを植えました。その心に賛同してやはり子供を亡くしたお母さんたちもいっしょにひまわりをたくさん植えました。途中で台風が来たり、海水がかぶってしまった土地ですからひまわりの育成に困難もありましたが、お母さんたちの努力で8月にたくさんのひまわりが見事に咲きました。お母さんたちはみんなで手を取り合って喜びました。そして、たくさんの種子を収穫しました。来年にはもっとたくさん咲いて欲しいからです。僕はこのお話をテレビで知り、感動しました。そして、日本人らしい心をとっても表していると思いました。このお話は、何時か「童話」となり「昔話」となり、幾代にもわたって日本中に伝わってほしいと心から強く祈念しています。」

お母様たちの「ひまわりを咲かせる」という愛情の表現はひまわりを謳った短歌であり、ひまわりを描いた魂の絵画と同一なのだと僕は思わずにはいられなかった。だから、当時当校の総合管理部の部長であったNGOCさんが中心にして集めた義捐金をこのひまわりを咲かせたお母さんたちに届けようということにさせてもらい、今回大分遅れてしまったが、やっと、大川小学校の遺族会の一員であり、ひまわりを咲かせたグループの方々に手渡すことが出来た。当日ひまわりのグループから福田さんご夫妻が代表で来られ、僕は「来年もたくさんのひまわりを咲かせてください」という当校のベトナム人スタッフと学生の主旨をお話しさせて頂き、当校のベトナム人の一生懸命の義捐金の合計金額13万円をお渡しした。そして福田さんから、大切なひまわりの種をいただきました。福田さんの奥様はグループの中心のメンバーのお一人で、前日にお電話で僕たちのことをお話ししたら、「その様な遠いお国の皆様までが・・・」と絶句され、電話の向こうで涙されていたご様子で、僕も何処に向かう感傷なのか不明なのだが思い切り滂沱の涙が机上にこぼれ落ちた。

当日13時、にお会いする約束であったが、念のために12時頃には到着していて、学校の前まで行って、ご焼香した。学校の位置は北上川雄大な流れから、200メートルぐらいだろうか。はっきり言ってもの凄く近接していて驚いた。滔々と流れる川の水が当時と変わらないだろう不安と悲劇の色に満ちていた。小さな学校は意外にもモダンなデザインで建築されており、ファサードは、普通の昔の小学校のイメージからほど遠い煉瓦とコンクリートの打ちっ放しの構造で、建築に詳しい人なら、毛綱毅曠(もづなきこう)さんの建築風というだろう代物で、驚いたのは、北上川の水面よりも低位置にありそうな学校の位置にもかかわらず、2階建てでしかなく、屋上もない構造であったことだ。どういう事なんだろう、川の氾濫でも、海側(ここからは海は見えない)からの津波でも、避難の時間的余裕を計算しての建築なのだろうか。あるいは、川と反対側にある安全地帯と思われる小高い山があるからなのだろうか。防災が昔から言われている土地柄にしては、まったく不用意な建築であり、一目してすぐに違和感を感じた。

福田さんご夫妻とは、かのひまわりの植えた「三角地帯」で僕と弟はお会いできた。ご夫妻はお子さんをこの学校で二人失った。子供が二人も一度に亡くなられた親の心境は地獄そのものだとしか言えない。本当にお気の毒です。何をお話しして良いのかさえ解りません。でも、お二人は背筋をキチンとされた態度でゆっくりと当時のこと、最近の事、そしてベトナム人への感謝の念を語った。凜とした姿とは、こういう事なのだろうと思う。「ひまわり」のお母様方、元気に生きてゆきましょう。生きて、亡くなられたお子さんたちとお話ししてゆきましょう。来年も見事なひまわりを咲かせてください。そのころ、また来ます。必ず、寄らせてください、ひまわりの皆様!
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投稿者 阿部正行 時刻: 17:34